菊水から南一条通りを歩く
Shunta
【歩行】
 10日朝、「歩こう会」の研修会場予約のため地下鉄東西線に乗って東札幌 にある札幌市産業振興センターに出向いた。予約手続きもすぐに終わり屋外の 気温はかなり低いが気持ちのよい朝でもあり自宅まで歩いて帰ることにした。 今年は全国的にも、札幌も、積雪が多く、道路の両側に撥ねられた雪山は既に 大人の背丈ほどの高さに積もっている。

 「札幌市産業振興センター」の辺りは、かっては市内の鉄道貨物を一手に扱 うJR千歳線・東札幌駅と広大な操車場があった跡地で、近年コンベンション センターや公園などが設置されたものの、未だに広い空き地が目立っている。 この辺りの道路が縦、横、斜めに複雑に交錯しているのもそのあたりに原因が ある。まだ道路名として残っている「東札幌停車場線」を西に歩いて有名な環 状歩道橋のある菊水五叉路に出る。

 「南郷通り」は、ここから北西へ進んで豊平川に架かる水穂大橋の袂に出る のだが、今回は真西に歩いて地下鉄の路線が走る道道3号札幌夕張線を辿る。 ほどなく地下鉄「菊水駅」に着く。この辺り戦後まもなくは、町工場が多く労 働者の街だったが、現在は国立札幌病院がんセンター、勤医協病院、老人ホー ム、保育所など、社会福祉の街になっている。

 菊水地区の中心・菊水3条2丁目筋を豊平川に平行に通る道路は、戦前まで は通称「大門通り」と呼ばれ、大正9年に薄野から移転してきた「白石遊郭」 があったところと聞いている。この道路の南郷通り寄りの菊水公園の一角に 「菊水稲荷神社」の祠がある。亡父のスケッチ帳によれば、付近の古老の話と して昔は女郎衆が盛んにお参りをしたというが、今ではご神体のない空堂宇と なっているそうだ。
 しかし、私が見た現在の堂宇は、その後建て替えられたのか小さいながらも コンクリート製の立派なものになっており、公園のイチョウの古木の際で雪の 中に堂宇がすっぽりと埋まっていたが、たまにお参りに訪れる人もあるようで つぼ足の跡が残っていた。

 元の菊水駅前に戻って一条大橋へ向かう。私の子供の頃には大橋ではなく単 に「一条橋」と呼んでいたのだが、今期の大雪の中で橋の入口は渋滞した車の 列が延々と続いている。橋の歩道と車線との間には、うず高く除雪の壁が出来 ていて歩道からは車が見えない。この寒さの中、橋の歩道を歩いているのは私 一人であったが、眼前には豊平川が水量豊かに流れて、すぐ上流側に架かる斜 張橋のシルエットが美しい「でんでん大橋」の近背景に千歳鶴の本社工場の建 物と遠方には藻岩山がどっしりと控えており、絵になる風景であった。

 一条橋を渡った豊平川の対岸には、かって市電・南一条円山線の終点と一条 中学の校舎があった。一条中学は、昭和43年の陵雲中学との統合で「中央中 学」と名前が変り、場所も北4条東3丁目の旧東北小学校の跡地に移転した。 旧一条中学の校舎の敷地は、現在、市中央区の東出張所になっている。
 また、大正14年に一条橋まで延長敷設された市電・南一条円山線も、地下 鉄路線との世代交代により、昭和48年には西3丁目以東が廃止となってる。 しかし、4丁目「三越前」以西では市電は1路線だけとはいえ未だ健在で、札 幌の古きよき時代を思い起こさせる。

 明治の昔には札幌随一の繁華街であった「南一条通り」を西に向かって歩い て行く。東3丁目には「北海道神宮の屯宮」があるが、古くからの市民は「屯 宮さん」と呼んで親しんでいる。屯宮は、明治11年に札幌神社の遥拝所とし て公認され、毎年6月15日札幌神社の祭礼の際には、神輿の御泊所として知 られている。
 入口鳥居左の手水場の辰の口から落ちる清水で手を清めた後、両側にイチョ ウの古木を配した西向き拝殿正面に拍手を打ってお参りする。あとで気づいた が、鳥居を潜ってすぐ対の狛犬と石灯篭があるのだが、灯篭の石柱にも辰の姿 の彫り物があった。豊平川もすぐそばにあり、屯宮には開拓三神の遥拝の他に も水神様への祈りの意味があるのかも知れない。

 やがて足は創成川に架かる創成橋にぶつかる。この橋は札幌市内最古の橋と されており、ごく短い石造りのめがね橋だが、金色の擬宝珠の載った欄干を持 つ立派な、というか、開拓使の拓いた計画都市・札幌のイメージとはちょっと 違和感を覚える橋でもある。
 橋の東袂には、かってレンガ造りのモダンな交番があって、私が小学校にあ がる前年、二条市場で祖母にはぐれて迷子になった時も保護された懐かしい建 物であったが、現在は野幌の開拓の村に移設保存されている。一方、橋の西袂 のビルの角には、創成橋のある南1条西1丁目が札幌開基の基点であることを 示した黒御影の記念碑とともに、半分に折れた石の橋名柱が置かれている。

創成橋からは大通公園に出て、自衛隊による「さっぽろ雪まつり」の大雪像造 成の準備作業を見学しながら家路に就いた。作業場には、ダンプやパワーショ ベルが入るとともに、本格的な作業足場も組まれていて、建設工事となんら変 るところがないようだ。今年は、雪の捨て場や排雪のダンプ確保にも苦労して いるというのに、一方では郊外からわざわざ新雪を運んでくるとは、皮肉なも のである。


【地誌】
 現在の白石区菊水地区は、豊平川の東岸で、米里、東札幌、東北通りに周囲 を囲まれている。明治4年(1871)旧白石藩士67名が白石村に移住・開 拓に入植したが、今の中白石付近の低地を割り当てられた人たちは、水難から 逃れるため開拓使の許可を得て豊平橋より下手の豊平川東岸沿いに再移住した。 同6年には30戸の部落となり「新白石村」と称したが、翌年「上白石村」と 改称された。「上」というのは札幌本府に近い「上の方」の意味で呼んだ。

 明治43年、上白石村の一部(現在の菊水1条1丁目〜9条二丁目)が札幌 区に編入。菊水と命名されたのは昭和29年で、当時は菊水西町、菊水北町、 菊水上町、菊水元町、さらに5年後には、菊水南町、菊水東町が追加されたが、 現在の地名では菊水上町と菊水元町が残り、他は全て菊水条丁目表記となって いる。そもそも「菊水」の地名は、明治11年(1878)に京都の公卿・公 爵菊亭脩季が菊水元町に約20haの菊亭農場を開墾経営したことに始まる。 大変温和な人で村内の人々に慕われていたという。この菊亭の「菊」と豊平川 の「水」に因んでこの地域を「菊水」と命名したと云われている。

 大正の初め、街の中心部・薄野地区は、豊水小学校(平成15年資生館小学 校に統合)や、区立女子職業学校(現在の札幌東高校の前身)が近隣に建った ことから、薄野遊郭を移転する議案が札幌区会で持ち上がった。そこで都心か ら近く、用地取得も容易な上白石村(現在の菊水地区)に白羽の矢が立った。 当時のこの地区は新しく札幌区に編入したばかりで一面のりんご畑だった。

 この畑地2万600坪を札幌区が買収造成し、貸座敷業者に分割売却した。 薄野で営業していた33軒の業者のうち、31軒は大正9年4月早々建設に着 手して9月には移転を終え、当時の農村地帯に忽然と街並みが現れた。その後 大正12年には関係者の寄付で、区内と新遊郭を結ぶ一条橋が架かり、飲食店 や遊技場、小売商店が年々増えて、数年足らずのうちに大歓楽境に発展した。 当時は、「札幌遊郭」とも「白石遊郭」とも呼ばれていた。

 菊水地区の氏神として、大正10年に南5条西8丁目から遷宮した菊水稲荷 神社の祭りも毎年7月5日に行われた。豊平から菊水にかけての1丁目と2丁 目の間の境で、国道36号線から12号線に至る道路を、かっては通称「大門 通り」と呼ばれており、遊郭入口に大門が建ったことから昭和32年頃までそ う呼ばれたという。

 白石区の中心部の町名は同区の主要幹線沿いに命名されており、まるで街道 町が何本もあるようで面白い。北側から、北郷通り沿いの「北郷」地区、平和 通り沿いの「平和通」、国道12号線沿いの「本通」、本郷通りに沿う「本郷 通」地区、栄通りを挟んでその両側の「栄通」などとなっている。

 「南郷通り」は、昭和42年に着工して50年12月に舗装が完成した比較 的新しい幹線道路である。「南郷通り」の公式名称は「道道3号札幌夕張線」 で、豊平川に架かる水穂大橋の袂から厚別区もみじ台まで約12キロある。一 条(大)橋から地下鉄菊水駅を通って菊水五叉路(環状歩道橋で有名)までは、 南郷通りと道道札幌夕張線は別々の道路になっている。

 札幌の建設は創成川と南一条の創成橋を基点として行われた。創成川に架か る橋はどれも木造であったが、基点となった創成橋だけは明治43年に石造り のめがね橋に建て替えられた。大正になって市電が発展し、南一条通りにも一 条橋まで市電が走った。東の袂に里程標、西の袂に赤レンガの交番があって人 目を引いていたという。今は野幌森林公園の開拓の村に移設保存されている。  また、測量の基点を示す「建設の碑」はモダンな姿で、西側ビルの一角に建 っている。この碑の両側には、創成橋の欄干の擬宝珠のモデルと、かすかに 「創成橋」と文字が読み取れる半分に折れた原石柱が記念として建っている。



(2006.01.10. 菊水公園の一角にある菊水稲荷神社の佇まい

(2006.01.10. 一条橋から上流側へ豊平川の流れを望む

(2006.01.10. 冬の北海道神宮屯宮の佇まい
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